「あ、あの……この契約書に書かれている子供が出来た場合と言うのは……?」
朱莉は声を震わせた。
「何だ、そんな事いちいち君に説明しなければならないのか? 決まっているだろう? 俺と彼女との間に子供が出来た場合だ。当然、俺と彼女との結婚は周囲から認めて貰えていない。そんな状態で子供が出来たらまずいだろう? その為にも偽装妻が必要なんだよ」
面倒臭そうに答える翔。
偽装妻……この言葉はさらに朱莉を傷つけた。初恋で忘れられずにいた男性からこのような言葉を投げつけられるなんて……。しかも相手は履歴書でどこの高校に通っていたか、名前すら知っているというのに。(鳴海先輩……私の事まるきり覚えていなかったんだ……)
悲しくて鼻の奥がツンとなって思わず涙が出そうになるのを数字を数えて必死に耐える。
(大丈夫……大丈夫……。私はもっと辛い経験をしてきたのだから)
「あの……社長と恋人との間に子供が出来た場合、出産するまでは外部との連絡を絶つ事とあるのは……」「ああ、そんなのは決まっているだろう。君が妊娠した事にして貰う為さ」
翔は面倒臭いと言わんばかりに髪をかき上げる。
(そ、そんな……!)
朱莉はその言葉に絶望した。
「社……社長! いくら何でもそれは無理過ぎるのではありませんか!?」
思わず朱莉は大きな声をあげてしまった。
「別に無理な事は無いだろう? 君がその間親しい人達と会いさえしなければいいんだ。直接会わなければ連絡を取り合ったって構わない。勿論その際は妊娠していないことがばれないようしてくれ。それは君の為でもあるんだ」
翔の言葉を朱莉は信じられない思いで聞いていた。
(本当に……本当に私の為なんですか……?)
今、目の前にいるこの人は自分を1人の人間として見てくれていない。
本当の彼は……こんなにも冷たい人だったのだろうか?一方の翔はまるで自分を責めるような目つきの朱莉をうんざりする思いで見ていた。
(何なんだよ……この女は。だから破格の金額を提示してやってるのに……。それとももっと金が欲しいのか? 全く強欲な女だ)
翔が軽蔑しきった目で自分を見ているのが良く分かった。
この人と偽装結婚をすれば、お金に困る事は無いだろう。母にだって最新の治療を受けさせてあげる事が出来るのだ。 この生活も長くても6年と言っていた。6年我慢すれば、その間に母だって具合が良くなって退院できるかもしれない。お金もたまって2人で暮せるマンションだって買えるかもしれないのだ。 それに朱莉は子供が好きだった。一時は保育士になりたいとも思っていた。ただ保育士になる為の学校へ通うお金が無かったから夢を諦めてしまった。やがて生まれてくるかもしれない鳴海と恋人の子供を自分で育てる。それも……ありなのかもしれない。
「……分かりました。このお話……謹んでお受け致します」
朱莉は頭を下げた。
「ああ、良かった。やっと納得してくれたんだね? ありがとう、助かるよ」
笑顔で言いながらも内心、鳴海は朱莉に毒を吐いていた。
(全く……どうせ引き受けるならもっと早くに返事をすればいいものを……!)
「じゃあ、早速契約書にサインを書いて貰えるかな?」
(相手の気が変わらない内にさっさとサインを書かせないと……)
翔は気が気では無かったが、その心配は稀有だった。朱莉は素直に契約書にサインをしたのである。
「あの、それでいつから偽装結婚を始めるのでしょうか?」
朱莉の質問に鳴海は少し考えて口を開いた。
「よし、まずは互いのプロフィールを交換し合おう。どんな内容のプロフィールが最低限必要なのか調べ上げて、ピックアップをして、アンケート形式で君のアドレスに送るようにしよう。それじゃ。連絡先を今すぐ交換させてくれ」
「はい」
朱莉がスマホを取り出そうとした時――
「あ、ちょっと待ってくれ。君が個人で使用しているスマホを使うのはまずいな……。いわゆる今回の偽装結婚はビジネスのようなものだ。俺とだけ専用に使用するスマホを用意させよう。明日の朝、この会社に取りに来てくれ。受付で渡せるようにしておくから」
受付で渡す……。仮にも偽造とは言え、結婚する相手なのだ。それでも翔は必要最低限の事でしか朱莉とは会わないと言う事が今の態度で良く分かった。
「はい、分かりました」
「それじゃまた近いうちに連絡を入れるから、君はその間にすぐ引っ越しが出来るように荷物をまとめておくんだよ。分かったね?」
「……」
しかし朱莉は返事をしない。
「どうしたんだ? 返事は?」
「あ、あの実はアパートの契約をついこの間2年契約で更新したばかりなんです。今契約を解除すれば違約金が発生してしまいます。申し訳ございませんが、先にいくらか前払いして頂けないでしょうか?」
朱莉は情けないのと恥ずかしいので顔を真っ赤にしながら、俯いた。
そんな様子を鳴海はじっと見ていた。
(全く……借金まで作って遊び歩いているのに、違約金を払う余裕すら無いのか?……この女、意外と金食い虫なのだろうか?)
だが、翔は作り笑いを浮かべると言った。
「ああ、そうだったね。すまなかった。支度金が必要だと言う訳なんだね? では早速銀行口座を作ろう、君のネットバンキングを作るから、毎月の手当てをそこに振り込むことにするよ」
「ありがとうございます。助かります」
「よしそれじゃ今日の打ち合わせはここまでだ。明日の朝10時にこの会社に来てくれ。ロビーの受付の人間に言伝を頼むから、そこで必要な物を色々受け渡す事にするよ」
言い終わると翔は立ち上がった。
その様子が朱莉には、まるでもう全ての用事は済んだのだから、早く帰ってくれと言われているように感じられた。「はい、それではまた明日、よろしくお願い言いたします」
最後に深々と頭を下げると朱莉は応接室を出て行った――
****
「ふう……」翔は溜息をつくと内線電話を手に取った。
プルルル……
電話の呼び出し音と共に、受話器を取る音が聞こえる。
『はい、九条です』
「ああ……今やっと終わったよ、琢磨」
疲れ切った声を出す翔。
『何だよ、大袈裟な奴だな。時間にしてみれば僅か1時間程度じないか』
何処か笑い声を含ませた声に聞こえた。
「お前なあ……酷いじゃないか。俺と一緒に彼女の話を聞く約束だっただろう?」
『煩いなあ。こちらだって色々仕事が溜まっていて大変なんだよ。大体彼女との面接は全てプライベートな事じゃ無いか。そんなものにこの俺を巻き込むなよ。それで相手はちゃんと納得したんだろうな?』
「ああ、勿論。あの様子だと大丈夫だろう」
『それで今度はいつ会うんだ? 明日か? 明後日か?』
「はあ? お前一体何を言ってるんだ? 何故俺が彼女と日を空けずして会わないとならないんだよ?」
琢磨の訳の分からない話に翔はイラついた。
『何故って……そりゃ仮にも偽装とは言え、結婚するわけだから昼間に会うのが難しければ、夜一緒に食事に行くとか……』
「お前なあ、そんな暇があるなら、俺は明日香と過ごすよ。それにあの明日香が俺が他の女と出掛けるのを許すと思っているのか?」
『えええっ! お、お前……それ本気で言ってるのか? 全く……やはりお前は鬼の様な男だな』
「うるさい。電話切るぞ」
翔はやけ気味に言った。
『オウオウ、いいぜ、ほら。早く電話切れよ』
しかし、琢磨は翔はこの電話を切る事が出来ないと言う事を知っていた。
「クッ……わ、分かったよ……悪い、琢磨。今から言うものを明日までに全て用意して貰えるか?」
翔は偽造結婚の為に必要な通帳や新しいスマホの用意を琢磨に依頼した――
――翌朝 朱莉は暗い気分で布団から起き上がった。昨日は以前からお休みを貰う約束を勤め先の缶詰工場には伝えていたのだが、今朝は突然の休暇願に社長に電話越しに怒られてしまったのだ。結局母の体調が思わしくないので……と言うと、不承不承納得してくれたのだが……。「これで会社を辞めるって言ったら……どんな顔されるんだろう」溜息をつくと、着替えを済ませて洗濯をしながらトーストにミルク、サラダとシンプルな朝食を食べた。 洗濯物を干し終えて時計を見ると既に8時45分になろうとしている。「大変っ! 急がないと10時の約束に間に合わないかも!」朱莉は慌てて家を飛び出し、鳴海の会社に到着したのは9時50分だった。(よ、良かった……間に合った……)早速受付に行くと、朱莉と殆ど年齢が変わらない2人の女性が座っていた。「あの……須藤朱莉と申しますが……」そこから先は何と言おうと考えていると、受付の女性が笑顔を見せる。「はい、お話は伺っております。人材派遣会社の方ですね。今担当者をお呼びしますので少々お待ちください」受付嬢は電話を掛けた。(え? 人材派遣会社……? あ……ひょっとすると私の素性を知られるのを恐れて……?)受付嬢は電話を切ると朱莉に説明した。「5分程で担当の者が参りますので、あちらのソファでお掛けになってお待ち下さい」女性の示した先にはガラス張りのロビーの側にソファが並べられていた。朱莉は頭をさげると、ソファに座った。(素敵な会社だな……。大きくて、綺麗で……あの人たちのお給料はどれくらいなんだろう。きっと正社員で私よりもずっといいお給料貰っているんだろうな……)そう考えると、ますます自分が惨めに思えてきた。昨日の面接がまさか偽造結婚の相手を決める為の物だったとは。挙句に翔が朱莉に放った言葉。『そうでなければ……君のような人材に声をかけるはずはない』あの時の言葉が朱莉の中で蘇ってくる。そう、所詮このような大企業は朱莉のように学歴も無ければ、何の資格も持たない人間では所詮入社等出来るはずが無かったのだ。その時、昨日面接時に対応した時と同じ男性がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。「お待たせ致しました。須藤朱莉様。お話は社長の方から伺っております。では早速ご案内させいただきますね」「はい、よろしくお願いいたします」挨拶を交わすと琢磨
――その日の夜朱莉が質素な食事をしているとスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。手に取り、早速開いて文面を読む。「あ……」それは鳴海翔からのメッセージでは無く九条琢磨からだった。『今日はお疲れさまでした。婚姻届けが本日受理されましたのでただいまより須藤様の苗字が鳴海にかわりますので、どうぞよろしくお願いいたします。新しい印鑑は後程郵送させていただきます。引っ越し業者もこちらで手配いたしました。3日後に業者がそちらへ伺いますので荷造りの準備を始めておいて下さい。後、結婚指輪をお作りしますので指輪のサイズを教えていただけますか? よろしくお願いいたします』「ふう……」朱莉は溜息をついた。この人物は余程有能なのだろう。今日だけでこれ程の仕事をこなすのだから。恐らく一流大の高学歴に間違いは無い。「やっぱりこういう人が会社では必要とされるんだろうな……あれ? そう言えば……指輪のサイズって……? 困ったな……。指輪なんて一度もはめた事が無いからサイズが分からないし……そうだ、調べてみよう」スマホをタップして、指輪のサイズの測り方を検索してみた。「へえ~。細い紙とセロハンテープがいるのね」早速セロハンテープと付箋を用意し、測ってみたところ朱莉の指輪サイズは7号だった。「7号か……。覚えておこっと」早速スマホにメッセージを打ち込んだ。『こんばんは。本日は色々とお世話になりました。引っ越し業者の件、どうもありがとうございました。明日、ここのアパートの解約をしてきます。指輪のサイズですが、今計測したところ7号でした。どうぞよろしくお願いいたします』(明日は会社に結婚した事と、仕事をやめる事を伝えなくちゃ……)朱莉は貰ったマンションのパンフレットを見た。港区六本木にある高級住宅マンション……いや、恐らく億ション。現在朱莉が住んでいるのは葛飾区の地区30年の古い賃貸アパート。そして職場はここから徒歩20分の缶詰工場。とても通勤出来る距離では無い。それに、これからは毎月150万ずつ振り込まれるのだ。日々の買い物はセレブだけが持つ事の許される「ブラックカード」もう一月16万円のパートをする必要は何処にもない。だけど……。「私が辞めると……困るかなあ……?」朱莉は溜息をついた―― 翌朝――「おはようございます。昨日は突然仕事をお休みしてしまい、申し訳ご
「おい、琢磨。お前……何勝手に結婚指輪なんて頼んでるんだよ」翌朝、社長室に現れた琢磨に翔はいきなり乱暴に指輪のカタログを投げつけてきた。「おい! 翔! いきなり何するんだよ!」琢磨は咄嗟に手で受け取った。「それはこっちの台詞だ! 誰がいつ結婚指輪を用意しろって言った? どんなデザインがよろしいでしょうか? って、いきなり宝石店の店長がメールを入れてきた時には驚いたぞ! しかもその後、そこの社員が受付嬢に俺にこのカタログを渡してくださいと置いて行ったんだからな!?」その言葉を聞いて琢磨の表情は凍り付いてしまった。「な……何だって? 翔……お前、今何て言った?」「だから、何故結婚指輪が必要なんだよ? そんなものがあったら相手が勘違いするだろう? 本当に俺の妻になったんじゃないかって!」「勘違いも何も書類上はお前と須藤さんはもう夫婦だろうが! 結婚式も無しの婚姻届けだけ。一緒に暮らす事も無く、その上結婚指輪まで渡さないつもりだったのか!?」琢磨のあまりの激高ぶりに流石の翔も異変を感じ、声のトーンを落とた。「お、おい……落ち着けよ。俺は別に本当に指輪など必要無いと思ったからだ。大体、あの女を見ただろう? 化粧っ気も無く、アクセサリーの類も何もしていなかった。だから指輪なんか必要無いと思ったんだよ」宥めるように琢磨に言うが、逆に翔の言葉は琢磨の怒りを増幅させただけだった。「何!? お前は結婚指輪をただのアクセサリーのように考えているのか!? 結婚指輪の意味はな……永遠に途切れることのない愛情を意味してるんだよ! 確かにお前と須藤さんは6年間の書類上の夫婦だけになるだろうが、もう少し彼女を尊重してもいいんじゃないのか? 優しくしてやろうとかは思わないのかよ!」「それは……無理だな。俺が愛する女性は明日香ただ1人なんだから。それに無駄に優しくしてあの女が俺に本気になったらどうするんだ? 俺に過剰に愛情を要求し出したり、6年後絶対に別れたくないと言って裁判でも起こされたら? いや、そもそも祖父の引退の状況によっては6年も経たないうちに離婚する事になるかもしれないのに。だから、あの女に必要以上に接触しないのは……むしろ、俺なりの……愛情のつもりだ」「……詭弁だな。それは」琢磨は憐みの目で翔を見た。「何とでも言え。俺は結婚指輪をつけるつもりはない。あの
今日は朱莉が葛飾区のアパートから六本木の億ションに引っ越しをする日である。全ての梱包作業を終え、不動産業者の賃貸状況の査定も何とか敷金で賄えて、追加料金を取られる事も無かった。後はこれで引っ越し業者がやって来るのを待つだけ。今迄自分で使っていた家具や家電は全て処分してしまったので部屋に置かれている荷物は段ボール10箱ばかりにしか満たなかった。朱莉がこの部屋で使用していた家具、家電はどれも1人用の小さな物ばかりで、逆に持っていけば邪魔になるような物ばかりだったからである。「新しい家に着いたら家具を買いに行かなくちゃ」朱莉はぽつりと呟いた。 引っ越し期間があまりにも短すぎた為に結局朱莉はこれから引っ越す億ションの内覧すらしていなかった。なのでどんな家具を買えば良いのかも一切分からず、翔から預かったブラックカードはまだ一度も使った事が無い。がらんとした床に座りながら朱莉は3年間暮らしてきたアパートを改めて見渡した。初めてここに引っ越してきた時は、あまりに狭く、古い造りの部屋に気分が滅入ってしまったが、日当たりが良く、冬でも部屋干しにしていても洗濯物が乾く所が気に入っていた。「住んでいる時はすごく狭い部屋だと思っていたのに……こうしてみると広く見えるものなんだ……」その時、呼び鈴が鳴った。「はい」玄関を開けると引っ越し業者の人達がぞろぞろと現れたので朱莉は面食らってしまった。(ちょっと……一体何人でやってきたの!?)数えると7名もの人数で現れたので、朱莉はすっかり仰天してしまった。一方の引っ越し業者の方も朱莉の荷物の少なさに面食らっている。「あ……あの……引っ越しのお荷物は……?」一番の年長者の男性が朱莉に尋ねてきた。「あの……お恥ずかしい話ですが、段ボール箱……だけなんです……」朱莉は顔を赤くして俯いた。(ああ……恥ずかしい! こんな事なら九条さんに引っ越しの件で連絡を入れれば良かったかも……。でも九条さんも忙しい方だし、私が引っ越し業者に依頼するべきだったんだ……)「申し訳ございません。私からきちんとお話するべきでした」申し訳ない気持ちで一杯になった朱莉は何度も頭を下げるので、かえって引っ越し業者は恐縮する羽目になったのであった。その後、引っ越し業者のトラックを見送った朱莉はマンションの住所を頼に、電車に乗って新しく済む億シ
その夜――21時 朱莉は1人で、億ションの広々とした部屋でベッドの上に丸まって眠っていた。初めはまるで巨大スクリーンに映し出されたかのような夜景に目を見張り、暫く見惚れていたのだが、この億ションはあまりにも広すぎた。朱莉は空しさを感じてしまい、まだ寝るには早すぎる時間なのに、そうそうにベッドに入っていたのである。 朱莉の今使用しているベッドは外国製の大型ベッドで寝心地は最高だった。この家具は、やり手秘書の九条が家具・家電を買いそろえる時間が朱莉には無いと思い、気を利かせて事前に全て買い揃え、部屋にセッティングしてくれていたのである。家具はどれも素敵なデザインばかりで、家電もとても使い勝手が良い物ばかりであった。だがそのどれもが自分で選んだものでは無かったので、ますますここが自分の新居とは思えずにいたのだ。(九条さんは良かれと思って用意してくれていたんだろうけど、出来れば少しくらいは自分で家具を見たかったな……。だけど私のような庶民が選んだ家具だといくら一緒に暮らさないとは言え、時々ここでお客様の接待があるならそれなりの家具じゃないと鳴海先輩に恥をかかせちゃうものね……) こうして1人で場違いなところにいると、何故だか無性に孤独を感じる。あの狭くて古かったけど、日当たりの良かった自分の賃貸アパートが懐かしい。あそこは全て朱莉が1人で選んだものばかりで、まさしく自分1人の城だったのだ。だけど、ここはまるきり自分の家とは思えない。6年経てば出て行かなければならない仮初の自分の住処。いや、状況によってはもっと早めにここを出て行く事になるかもしれない。その為に1年ごと結婚生活の更新と言う形になっているのだ。(今頃鳴海先輩は……この下の階の部屋で明日香さんと過ごしているのかな……?) 防音設備があまりにも整い過ぎているのか、物音ひとつ響いてこないだだっ広い部屋にベッドの中で身じろぎするシーツの音と、朱莉の溜息だけが聞こえるのみだった――****――同時刻 ここはとある高級ショットバー。九条は1人、カウンターでシェリートニックを飲んでいた。「悪い、遅くなったな」そこへ鳴海翔が現れた。「遅い、お前……どれだけ俺を待たせる気だ」仏頂面で九条は鳴海をジロリと睨み付けた。「仕方が無いだろう? 明日香の奴が中々解放してくれないものだから……」「チッ! の
――翌朝 ピンポーン 午前10時。朱莉が引っ越しの荷物の荷解きをしていると玄関からチャイムが鳴った「え……? 誰だろう? 私の所にお客さんなんて……」(鳴海先輩のはずは無いし……九条さんかな?)インターホンの使い方が朱莉には分からなかったので、急いで玄関に向かってドアを開けると、そこには長い髪を茶髪に染めた、スレンダーな美女が立っていた。清楚なワンピースに身を包んだ彼女は正にセレブの姿だ。「貴女ね……? 翔の書類だけの結婚相手は?」じろりと睨み付けるように朱莉を見るその姿は――(明日香先輩!)朱莉にはすぐに彼女の事が分かった。「ふ~ん……。私達の住んでる部屋と殆ど変わらないわね?」明日香は『私達』をわざと強調するかのように値踏みしながら辺りをキョロキョロと見渡すと上がり込んできた。「え~と……。須藤朱莉さん……だったかしら? いずれ貴女がお役御免になったら、この部屋に私と翔が一緒に暮らすのだから、あまり汚さないように気を付けて使ってちょうだいよね。この億ションは私達の持家だけど、下の億ションは賃貸なんだから」明日香は応接室に入るとソファに座る。「はい、分かりました。気を付けて使うようにしますね」朱莉は俯きながら返事をした。(そうか……先輩達は将来この家で夫婦として暮らすのね……)「全く……それにしても地味な女ね。でも辺に見栄えがする女じゃ無くてある意味良かったわ。勘違いして私の翔を誘惑する事も無さそうだしね」この家の主人のように腕組みをしてソファに座る明日香は正に女王様のようにも見えた。「そ、そんな……私は決して鳴海さんの事を誘惑しようとは考えてもいません」慌てて顔を上げて朱莉が言うと、明日香は何処か小馬鹿にしたかのように笑みを浮かべる。「あら、嫌だ。冗談で言ったのに……まさか本気にしちゃった訳? 大体貴女みたいな地味女を翔が見向きするはずないじゃないの」「はい、仰る通りです。明日香さんは本当にお綺麗ですから……」「あら、意外と素直に認めるのね。所でお茶の一杯も出ないのかしら? この家では?」明日香の言葉に朱莉は真っ赤になった。「す、すみません……。まだ引っ越しの荷解きが終わっていないのと……じ、実は給湯器の使い方が分からなくて……」「あら、嫌だ。貴女、そんな事も知らなくて引っ越しして来たの? それじゃ昨夜食事は
ここは鳴海翔のオフィス。ノックの音がして琢磨が部屋に入って来た。「ほらよ、お待たせ」来客用のガラステーブルの上に2人分のランチボックスを置くと琢磨はソファにすわり、奥にある小型冷蔵庫から缶コーヒーを取りだし、プルタブを開けた。「温かいうちのほうが美味いぜ」「ああ、分かったよ」琢磨に促され、翔もランチボックスの置かれているテーブルに移動してソファに座るとボックスを開けて中を見た。「ふう~ん。美味そうじゃないか」「そうだろう? 丁度こっちに戻って来る時に会社の前でキッチンカーが何台か来ていてな。一番行列が出来ている列に並んで買ってきたのさ」琢磨が買って来たのはケバブのランチボックスだった。ソースが良く馴染んだ肉が乗せてあり、サラダやフライドポテトも付いている。「よし、それじゃ食べるか」翔の言葉に琢磨もランチボックスを開けて、2人で食事を始めた。「翔。昨夜、あの後どうしたんだ?」食事をしながら琢磨が尋ねる。「あの後?」「会社の帰り、明日香ちゃんとオフィスビルの外で待ち合わせをして二人で食事して帰ったんだろう?」「それがどうした?」「朱莉さんに何か連絡はいれたのか?」一瞬、ピクリと翔は反応したが、すぐに食事を続けながら答えた。「もちろんだ。メールを入れたよ。一度時間がある時にお互いの事を知る為に一緒に食事でもどうでしょうか? ってな」「おお! お前にしては中々気の利いたメールを入れたじゃ無いか? それで朱莉さんは何だって?」翔は黙って朱莉から届いたメールの内容を琢磨に見せた。<はい、勿論です。よろしくお願いします>「随分シンプルな内容だと思わないか? この俺がわざわざ連絡を入れたって言うのに」どこかつまらなそうに翔は言う。「恐らく気を使っているんじゃないか? 明日香ちゃんにさ。親し気な内容のメールを送って中を見られでもしたらまずいと思ったんじゃないかな?」「え? なんだって明日香に……? 大体明日香が彼女のスマホを……」そこまで言いかけて翔は昨夜の明日香との食事の時の会話を思い出した。<須藤朱莉さんのスマホに私の連絡先を登録しておいたわ。これからは何か困った事があったら連絡を入れてちょうだいと伝えてあるのよ>「そういえば明日香が彼女のスマホに自分の連絡先を登録したと言っていたな……」翔の言葉に琢磨は顔をしかめる。
――その日翔は久しぶりに海外支社に赴任中の社長である父親とPC電話で会話をしていた。『どうだ、翔。本社での様子は?』「はい、今のところは競合他社よりは我が社の方が同価格でも年間にかかるコスト費用を考えれば安く抑えられると相手側企業が判断してくれた為、我が社との取引を決断していただく事が出来ました」「そうか。それは良かったな。ところで翔。今から話す事は社長と副社長としての会話では無く親子としての会話だと思って答えてくれ』急に翔の父親は声のトーンを変えてきた。「ああ。分かったよ。父さん。で……話って何?」 『翔……お前結婚したんだってな?』ああ、やはりその話かと翔は覚悟を決めた。「そうだよ。相手は26歳の須藤朱莉って名前の女性だよ」『全く……何て勝手な事をしてくれたんだよ。会長はカンカンに怒っているんだぞ? 何故父親であるお前がちゃんと見張っていなかったんだ。監督不行き届きだと会長に怒られてしまったんだからな?』「ごめん……父さん。俺はどうしても勝手に結婚相手を決めて欲しくは無かったんだ。父さんのようにね……」すると翔の父は顔を歪めた。『翔……お前……やはり私の事を責めているのか? 勝手にお前の母さんと離婚して他の女性と再婚したことを』「いいえ、まさか。だって会長の命令だったんですよね? 仕方が無いですよ」それに―口には出さなかったが、翔は心の中で思った。(父さんが再婚してくれたから……俺は最愛の女性と知り合う事が出来たのだから)最愛の女性……それは明日香の事である。 元々翔の父親は学生時代から交際していた恋人がいた。2人は卒業後に結婚の約束をしていた。しかし、父親……翔の祖父から猛反対をされたのだ。それでも翔の父は言う事を聞かず、2人は強引に結婚した。結局祖父が折れた形となったのである。やがて2人の間に翔が誕生した。3人での生活がいよいよ始まるという矢先、祖父は翔の母親に対して離婚するように迫ったのである。もし息子を置いて家を出ないのであれば、強引に養子縁組を結んで翔を自分の息子として手元に置くと。翔の父は何とか妻を守ろとしたが、結局周囲の圧力に耐えかねた翔の母は離婚届に判を押し、泣く泣く1人で家を出たらしい。そしてその数年後……精神を病んだまま、実母はこの世を去る事となった。 祖父は息子の離婚が成立すると同時に、大々
やがて車は朱莉の住む億ションへと到着した。車から降りた朱莉の母はその余りの豪勢な億ションに驚いていた。「朱莉……。貴女、こんな立派な家に住んでいたの?」「う、うん。そうなの」朱莉は少しだけ目を伏せる。(ごめんね……お母さん。ここは私の家じゃないの。将来的には翔先輩と明日香さんが2人で一緒に暮らす家なの)「朱莉? どうかしたの?」母は朱莉の様子に異変を感じ、声をかけると琢磨が即座に話しかけてきた。「あの、それでは私はこれで失礼いたしますね。直に副社長もいらっしゃると思いますので」「まあ、ここでお別れなのですか? どうも色々と有難うございました。え……と……?」朱莉の母が言い淀むと琢磨が笑みを浮かべる。「九条です。九条琢磨と申します」「九条さんですね? 本当に今日はお迎えに来ていただき、ありがとうございました」「いいえ、とんでもございません。それではまた何かありましたらいつでもご連絡下さい。それでは失礼いたします」そして琢磨が背を向けて車に戻ろうとした時。「九条さん」朱莉が琢磨に声をかけた。琢磨が振り向くと、そこには笑みを称えた朱莉が見つめていた。「九条さん。本当に今日はありがとうございました」「! い、いえ……」琢磨は視線を逸らせると、まるで逃げるように車に乗り込み、そのまま走り去って行った。「どうしたんだろう……? 九条さん。あんなに急いで帰って行くなんて」「秘書のお仕事をされているそうだから忙しいんじゃないかしら?」「うん。そうだね」(今度九条さんに何かお礼をしないと……)朱莉は母に声をかけた。「お母さん、それじゃ私の住まいに案内するね」**** エレベーターに乗り、玄関のドアを開けるまで、朱莉はずっと不安だった。母から今週外泊許可が下りたという話が出てから、翔が朱莉と一緒に住んでいるかと思わせる為の痕跡づくりに奔走していた。朱莉はお酒を飲むことは殆ど無いが、ウィスキーやワインを買って棚にしまったり、ビールのジョッキやカクテルグラスも用意した。さらに男性用化粧水やシャンプー剤を取り揃え、何とか母にバレないようにする為に必要と思われるありとあらゆる品を買い、まるでモデルルームのようにすっきりしている部屋も大分生活感溢れる部屋へと変わっていたのだ。「さあ、お母さん。着いたよ、中に入って」朱莉は自分の部屋に
「お母さん、迎えに来たよ」朱莉は笑顔で母の病室へとやって来た。「あら、朱莉。早かったのね。でも嬉しいわ。貴女と一緒に1日過ごせるなんて何年ぶりかしらね?」洋子はもうすでに外泊の準備が出来ていた。いつものパジャマ姿では無く、ブラウスにセーター、そしてスカート姿でベッドの上に座り、朱莉を待っていたのだ。朱莉の後ろから琢磨が病室へと入って来ると挨拶をした。「初めまして。朱莉さんのお母様ですね。私は……」すると洋子が目を見開いた。「まあ! 貴方が翔さんですね? 初めまして、私は朱莉の母の洋子と申します。いつも娘が大変お世話になっております」「お母さん、待って、違うのよ。この方は……」挨拶をする洋子を見て朱莉は慌てると、琢磨が自己紹介を始めた。「私は鳴海副社長の秘書を務めている九条琢磨と申します。本日は多忙な副社長に代わり、お迎えに上がりました。どうぞよろしくお願いいたします」そして深々と頭を下げた。「まあ、そうだったのですね? 申し訳ございませんでした。私ったらすっかり勘違いをしておりまして」洋子は自分の勘違いを詫び、頬を染めた。「いえ、勘違いされるのも無理はありません。それでは参りましょうか? お荷物はこれだけですか?」琢磨はテーブルの上に置かれているボストンバックを指さした。「はい。そうです」洋子が返事をすると、琢磨はボストンバックを持って先頭を歩き、朱莉と恵美子がその後ろに続いて並んで歩く。洋子が朱莉に小声で囁いた。「嫌だわ……私ったらすっかり勘違いをしてしまって」「いいのよ、お母さん。だって分からなくて当然よ」朱莉は笑みを浮かべる。「え、ええ……。そうよね。でも……改めて鳴海って苗字を聞くと、何処かで聞き覚えがある気がするわ」洋子は首を傾げたが、朱莉はそれには答えずに話題を変えた。「ねえ、お母さん。今夜はね、お母さんの好きなクリームシチューを作るから楽しみにしていてね?」「ありがとう。朱莉」****「今、正面玄関に車を回してくるので、こちらでお待ちください」琢磨は朱莉と洋子に言うと、足早に駐車場へと向かっていく。その後姿を見送りながら、洋子が朱莉に言った。「あの九条さんと言う方……すごく素敵な方ね?」「うん。そうなのよ。だけど今はお付き合いしている女性がいないみたいなの」「そうなのね。誰か好きな女性でも
「あの…九条さん、本当に車を出していただいてよろしいのでしょうか?」朱莉の躊躇いがちな言葉に琢磨は我に帰った。「勿論だよ。俺は翔の秘書だからな。朱莉さんのお母さんに挨拶するのは当然だと思っているし、翔が病院まで迎えに行けないのなら、俺が行くのは当たり前だと思ってるよ」自分でもかなり滅茶苦茶なことを言ってるとは思ったが、琢磨は少しでも朱莉の役に立ちたかった。「そこまでおっしゃっていただけるなんて光栄です。それに翔さんにも感謝しないといけませんね」朱莉が笑みを浮かべながら、翔の名を口にした事に琢磨の胸は少しだけ痛んだ。「それじゃ、行こうか? 朱莉さんも乗って」琢磨は朱莉を車に乗るように促した。「お邪魔します」朱莉が助手席に乗り込むと、琢磨も運転席に座りシートベルトを締める。「よし、行こう」そして琢磨はアクセルを踏んだ―—****「九条さんはお休みの日はもしかしてドライブとか出掛けたりするんですか?」車内で朱莉が尋ねてきた。「うん? ドライブか……。そうだな~月1、2回は行くかな? 友人を誘う時もあるし、1人で出かける時もあるし……」「そうなんですか。やはりお忙しいからドライブもなかなか出来ないってことですか?」「いや。そうじゃないよ。俺は休みの日はあまり外出をすることが無いだけだよ。大体家で過ごしているかな。好きな映画を観たり、本を読んだり……。月に何度も出張があったりするから家にいるのが好きなのかもな」「そうですか……。私は普段から自宅に居ることが多いからお休みの日は出来るだけ外出したいと思っているんです。だから、実は今度翔さんに教習所に通わせて貰おうかと思っているんです。それで免許が取れたら車を買いたいなって……。あ、も、勿論車は翔さんから振り込んでいただいたお金で買うつもりですけど」朱莉の話に琢磨は目を見開いた。「朱莉さん……何を言ってるんだ? 車だって翔のお金で買えばいいじゃないか。何度も言うが、朱莉さんは書類上はれっきとした翔の妻なんだから。もし車を買いたいってことが言いにくいなら俺から翔に伝えてあげるよ。それに……外出をするのが好きなら俺でよければ……」そこまで言うと琢磨は言葉を飲み込んだ。「え? 九条さん。今何か言いかけましたか?」「い、いや。何でもないよ。ほら、朱莉さん。病院が見えてきたよ」琢磨はわざと明
土曜日――今日は朱莉の母が入院してからの初めての外泊日であり、更に翔が朱莉の自宅へやって来る最初の日でもった。朱莉は興奮のあまり、今朝は5時に目が覚めてしまったくらいである。そこで朱莉は部屋中を綺麗にするために掃除を始め……気付けば朝の8時になっていた。「あ、もうこんな時間だったんだ!」朱莉はお湯を沸かし、トーストとサラダ、コーヒーで朝食を手早くとると出掛ける準備を始めた。「それじゃ、出掛けて来るね。フフ……次に帰って来る時はお客さんが2人いるからね? 驚かないでね?」サークルの中に入っているウサギのネイビーの背中を撫でて声をかけた。コートを羽織り、ショルダーバックを肩から下げるとはやる気持ちを押さえながら母の入院している病院へと向かおう億とションを出て……朱莉は足を止めた。「え……?」億ションの前には車が止められており、そこには見知った人物が立っていたからである。(まさか………?)「く、九条さん? 一体何故ここに……?」すると、琢磨は笑顔で答えた。「おはよう、朱莉さん。今日はお母さんの外泊日だろう? だから迎えに来たよ。って言うか……翔から頼まれてね。朱莉さんを病院まで送って、お母さんを連れ帰ってきてくれないかって」「え……? 翔さんが?」朱莉が頬を染めて嬉しそうに微笑む姿を琢磨は複雑な表情で眺めた。しかし、事実は違った——**** それは昨日の昼休みの出来事――「明日は朱莉さんのお母さんが外泊をする日だろう? どうするんだ?」琢磨がキッチンカーで購入して来たタコライスを口にしながら尋ねた。「うん? 明日は朱莉さんがお母さんを病院から自宅へ連れて帰る事になっているぞ? 多分タクシーで帰って来るんじゃないかな?」翔はロコモコ丼を美味しそうに口に運んだ。「何? 翔……お前、もしかして一緒に病院へ迎えに行かないつもりなのか?」琢磨は鋭い目つきで翔を見た。「ああ。そうだが?」「おい! 何故一緒に朱莉さんと病院へ向かわないんだ? 書面上とはいえお前と朱莉さんは夫婦なんだから、普通は一緒に迎えに行くだろう? しかも朱莉さんのお母さんは病人なんだから、車で迎えに行くべきだと思わないのか?」怒気を含んだ琢磨の物言いに戸惑う翔。「どうしたんだ? 何もそれ程怒ることか? それに無理を言わないでくれよ……。朱莉さんの部屋へ泊る事を
しかし、翔は琢磨の怒りに気付かずに続ける。「だから反省してるんだ。それに今の明日香ならきっと分かってくれるさ。週末は俺が朱莉さんの家へ行く。それで問題は解決だ」「……」しかし、琢磨は返事をしない。「どうしたんだ? 琢磨?」「お前……ふざけるなよ……」怒りを抑えた声色で琢磨は賞を睨みつけた。「どうした? 何かお前、怒っていないか?」「別に……ならお前から朱莉さんにメッセージを送ってやれ」ぶっきらぼうに言うと翔は頷いた。「そうだな。なら今ここで朱莉さんに電話をかけよう」(で……電話だって!? 俺だって、そうそう簡単に朱莉さんに電話を掛けられないのに!?)その瞬間琢磨は自分自身に驚いた。(え……? 一体俺は今何を思ったんだ……?)琢磨の様子がおかしいことに気付いた翔が尋ねてきた。「琢磨、どうしたんだ? 何だか顔色が悪いぞ? 戸締りはしていくからお前、先に帰れよ」翔は朱莉との連絡専用のスマホを手にしている。琢磨は一瞬そのスマホを恨めしい目で見つめ、首を振った。「ああ。分かった。先に帰らせてもらう。悪いな……」正直な話、今夜はこれ以上ここにいたくないと思った。今から翔は朱莉に電話を掛けるのだ。その会話を傍で聞くのは正直な話、辛いと琢磨は感じていたからだ。「悪い、それじゃ先に帰るな」上着を羽織り、カバンを持つと翔に背を向けた。「ああ。気を付けて帰れよ」ドアを閉めると、翔が電話で話す声が聞こえてきた。その声をむなしい気持ちで聞き……琢磨はオフィスを後にした。 外に出ると、いつの間にか小雪がちらついていた。「3月なのに……雪が……」琢磨は白い息を吐きながら高層ビルが立ち並ぶ空を見上げる。「朱莉さん……」(結局、俺が朱莉さんにしてあげられることって……殆ど無いのか……)小さくため息をつくと、足早に街頭が光り輝く町の雑踏を歩き始めた――**** 同時刻——朱莉は翔からの電話を受けていた。「え……ええっ!? ほ、本当によろしいのですか? 翔さん」まさか翔の方から朱莉の部屋へ来てくれるとは思ってもいなかったので朱莉は信じられない気持ちで一杯だった。『ああ、勿論だよ。今まで一度も朱莉さんのお母さんとは会ったことは無かったからね。本当にすまなかった。やっとご挨拶することが出来るよ』受話器越しから聞こえてくる翔の声は優しか
その頃――まだ翔と琢磨はオフィスに残って残務処理をしていた。「参ったな……役員会議で新たな問題が出てくるとは…‥」翔は頭を抱えながら資料を見直している。「仕方がないさ。常に社会は動いているんだ。こういう時もあるだろう? それより翔。お前、そろそろ帰らなくてもいいのか? 明日香ちゃんを1人にしておいて大丈夫なのか?」琢磨は目を通していた資料から視線を翔に移した。「ああ、今夜は大丈夫なんだ。家政婦さんが朝まで泊まり込んでくれるからな」明日香が流産をしてから翔は家政婦協会に依頼し、翔の帰りが遅くなりそうなときは泊まり込みで家政婦を派遣してもらえるように頼んでおいたのだ。「ふ~ん……なら安心だな」その時、突然琢磨のスマホが着信を知らせた。琢磨はスマホを手に取るとドキリとした。「朱莉さん……」今までは普通に朱莉からのメッセージを受け取っていたのに、今夜に限って何故心臓が一瞬跳ね上がるかのように感じる。琢磨は自分の気持ちが良く分からなくなっていた。「朱莉さんからなのか? 何て言ってきてるんだ? と言うか……そうだ、琢磨。最近明日香も以前に比べると大分朱莉さんに対して気持ちが軟化してきてるんだ。今ならひょっとすると朱莉さんから俺に直接メッセージが届いても、もう何も言わないかもしれない。だから朱莉さんに伝えてくれないか? これからは俺に直接メッセージを送ってもらって構わないって」しかし、琢磨は翔の言葉に何故か苛立ちを覚えた。(何を言ってるんだ? 今まで散々明日香ちゃんに気を使って朱莉さんとの直接のやり取りを拒否してきたくせにここにきて突然そんなことを言い出すなんて……)「いや、いい。もしかするとこのメッセージは俺自身に用があってよこしているかもしれないだろう?」「ふ~ん……? 分かったよ。お前に任せる」そして翔がPC画面を見つめている時、琢磨が髪をかき上げながら苛立ちの声を上げた。「くそっ!」「どうしたんだ? 琢磨。朱莉さんのメッセージでそんな風に苛立つなんて一体何があったんだ?」翔が声をかけると、琢磨がため息をついた。「朱莉さんのお母さんが今週病院から外泊許可を貰って朱莉さん宅へ来たいと言ってるらしいんだ。だけど……。お前、普段からあの自宅には住んでいないだろう? 朱莉さん曰く、お前の生活感が全く無い部屋だと言っている。それにお前だ
――17時「それじゃ、お母さん。また来るね」面会時間が終わり、朱莉は母に声をかけて席を立つと呼び止められた。「あ、あのね……朱莉。実は今度の週末、1日だけ外泊許可が取れたのよ」「え? 本当なの!? お母さん!」朱莉は顔をほころばせて母の顔を見た。「え、ええ……。それで朱莉、貴女の住むお部屋に泊らせて貰っても大丈夫かしら?」「!」母の言葉に朱莉は一瞬息が止まりそうになったが、何とか平常心を保ちながら返事をした。「うん、勿論大丈夫に決まってるでしょう?」朱莉はニコリと笑顔を見せると母に手を振って病室を後にした——****(どうしよう……)朱莉は暗い気持ちで町を歩いていた。母が外泊することが出来るまでに体調が回復したと言うことは朱莉にとって、とても喜ばことことであった。だが、それが朱莉の住む部屋を母が訪れるなると話は全くの別物になってくる。母があの自宅を見たら、朱莉が1人であの部屋に住んでいると言うことがすぐにばれてしまう。かと言って翔にその日だけでも朱莉の自宅に来てもらえないかと頼めるはずも無い。……どうしよう? いっそのこと母に事実を話してしまおうか?実は翔との結婚は書類上だけで、実際はただの契約婚だと言うことを。だけど……。(駄目……本当のことなんかお母さんに話せるはずが無い。きっと心配するに決まっているし、そのせいでまた具合が悪くなってしまうかもしれない。折角体調が良くなってきたっていうのに……。そうだ、いっそのこと翔先輩は突然海外出張で不在だって嘘をついてみる……?)だが、あの部屋はどう見ても翔の存在感がまるで無い。一応食器類は翔の分として用意はしてあるし、クローゼットにも服は入っている。だけど……やはりどんなに取り繕ってみても所詮女の1人暮らしのイメージが拭い去れないのは事実であった。「どうしよう……」気付けばいつの間にか朱莉は自分が住む億ションへと辿り着いていた。そして改めてタワー億ションを見上げる。「馬鹿だな……私……。結局私自身もここに仮住まいさせて貰っている身分だって言うのに……」暗い気持ちでエレベーターに乗り込むと、今後の事を考えた。どうしよう。やはり母には何か言い訳を考えて、ここには連れて来ない方がいいかもしれない。それならどうする? いっそ……何処か都心の高級ホテルを借りて、そこに母と二人で泊ま
翌日――琢磨と翔は都内にある取引先を訪れており、昼休憩の為にイタリアンレストランへ来ていた。「うん。ここのイタリアンは中々旨いな。今度明日香を連れて来てみよう」翔はボロネーゼのパスタを口に入れると満足そうに頷く。「ああ…」返事をする琢磨は何故か上の空だ。「昨日は明日香の体調が良かったから久しぶりに二人で水族館へ行って来たんだ。やっぱり水族館は良いな。……何と言うか癒される気がする」「そうだな……」琢磨は溜息をつきながら、ポルチーニパスタを口に運んで無言で食べている。「……どうにも調子が狂うな……。仕事上でミスは無かったが一体どうしたんだ? 琢磨、何だか元気が無いように見えるぞ?」翔は琢磨の顔をじっと見つめた。「いや……別に俺は至って普通だ」「嘘つけ。今だって上の空で食事をしているのは分かってるんだぞ? 一体何があったんだ? いつものお前らしくも無い。何か悩みでもあるなら俺に相談してみろよ? 考えてみれば最近はずっとお前が俺の相談に乗っていてくれたからな」食事を終えた翔はフォークを置いた。「……別に何も悩みなんかないさ」器用にパスタをフォークに巻き付ける琢磨。「そうか……? それで、さっきの水族館の話なんだが、明日香もすっかり熱帯魚が気に入ったらしく、帰宅してからネットで熱帯魚の事を色々調べていたんだ。朱莉さんに触発されたのかな? あの明日香がペットを考えているなんて信じられないよ」翔の口から朱莉の名前が出てくくると、そこで琢磨は初めてピクリと反応した。「朱莉さん……? 朱莉さんがどうしたって言うんだ……?」「お前……やっぱり俺の話、上の空で聞いていたな? だから明日香がペットに熱帯魚を探し始めているんだ。それで朱莉さんの影響を受けたんじゃないか? って話を……。ん? そう言えば朱莉さんは何か次のペットを考えいているのかな?」「……珍しいよな。お前が自分から朱莉さんの話をするなんて。ひょっとして……お前も……」そこで琢磨は口を閉ざした。(え……? 今、俺は何を言おうとしていたんだ……?)「ん? 何だよ、お前もって?」一方の翔は琢磨が突然口を閉ざしてしまったので不思議そうに琢磨を見る。「いや、何でも無い」琢磨は最後の食事を終えると、コーヒーをグイッと飲み込んだ。「今日は15時から役員会議があるだろう? 早めに社に
「お荷物は全てお部屋に運んで置きました。こちらがお預かりしていた部屋のキーでございます。お受け取り下さい」琢磨は朱莉に部屋の鍵を渡してきた。「は、はい……。どうもありがとうございます……」(一体九条さんは急にどうしたんだろう? さっきまではあんなに親し気な態度を取っていたのに……)「それでは私はこれで失礼いたします。副社長によろしくお伝え下さい。それでは私はこれで失礼させていただきます」「分かりました……」戸惑いながら朱莉は返事をした。(副社長によろしく等、今迄一度も言った事が無かったのに……)琢磨はペコリと頭を下げると足早に去って行った。その後ろ姿は……何故か声をかけにくい雰囲気があった。(後で九条さんにお礼のメッセージをいれておかなくちゃ……)京極は少しの間無言で琢磨の後ろ姿を見ていたが、やがて口を開いた。「彼は朱莉さんの夫の秘書だと言っていましたよね?」「はい、そうです。とてもよくしてくれるんです。親切な方ですよ」「だからですか?」「え? 何のことですか?」「いえ。今日の朱莉さんは今迄に無いくらい明るく見えたので」京極はじっと朱莉を見つめる。「あ、えっと……それは……」(どうしよう……。京極さんにマロンを託したのに、今度は新しく別のペットを飼うことになったからですなんて、とても伝えられない……)その時京極のスマホが鳴り、画面を見た京極の表情が変わった。「……社の者から……。何かあったのか?」京極の呟きを朱莉は聞き逃さなかった。「京極さん。お休みの日に電話がかかってくるなんて、何かあったのかもしれません。すぐに電話に出た方がよろしいですよ、私もこれで失礼しますね」実は朱莉は新しくペットとして連れてきたネイビーの事が気がかりだったのだこの電話は正に京極と話を終わらせる良い口実であった。「え? 朱莉さん?」戸惑う京極に頭を下げると、足早に朱莉は億ションの中へと入って行った。(すみません……京極さん。後でメッセージを入れますから……)エレベーターに乗り込むと、朱莉は琢磨のことを考えていた。(九条さんはどうしてあんな態度を京極さんの前で取かな? もしかして変な誤解を与えないに……?だけど私と九条さんとの間で何がある訳でもないのに。でも、それだけ世間の目を気にしろってことなのかも。それなら私も今後はもっと注意しな